身体中に、鉧出しの塵を浴びて なんだか砂砂してる。
そして、心は興奮冷めやらぬとかいう問題じゃなくて、腑抜けというか、度肝を抜かれちまったというか...。
そこから《奥出雲たたらと刀剣館》へ
実寸大の高殿の地下構造模型を見学し てあれこれ疑問を解決。鞴も踏んでみたよ。
奥出雲にはたたら関係の様々な物がある。どこ行こう???決めかねるんだなぁ。
スタッフさんに「たたら関係だと何を見るべきですか?」と尋ねると効率的に回れるルートを教えてくださった。
行きたいと思っていた場所が冬季閉鎖だったりしたので聞いて良かった。 《当時のまま保存されている唯一の高殿。菅谷たたら内部 操業はしていない。》
そこから、いくつも回っていて口を揃えて言われた事がある。
「えっ?お一人で??? 日刀保さんとどような関係ですか?見学許可よくもらえましたね。」
そうだよね。
見学者の中には女性も、私世代の方も チラホラいらっしゃった。
でもなんの後ろ盾もなくピンで居るのは私だけだった。
思えば、『日刀保たたら』見学は10年以上の悲願だった。
私は鉄という素材そのものに惚れ込んで鍛冶屋をしている。
鉄に関することなら、宇宙や地球の成り立ち、人体での働き。鉄鉱、製鉄、鉄鋼、鉄工あらゆる事を学びたいのだ。
そんな私がなぜ、私がこのような貴重な機会をいただけたのか、それがどれほど嬉しかったか。
鍛冶屋を始めてから3つの願いがあった。
・製鉄所見学 (今流行りの一般人向け見学ではなくもっとコアな)
・刀匠見学。
・日刀保のたたら見学
製鉄所見学は新日鐵住金(八幡製鐵所)さんと日新製鋼(呉・周南工場)さんが叶えてくださった。
刀匠見学は偶然にも株式会社三五さんが刀匠尾川兼國さんの所に連れて行ってくださった。 《刀匠・尾川兼國氏》
ただ一つ残されたたたら見学だけは叶わなかった 鉄鋼業界の知れる限りのルートを辿っても途中で糸は途絶えた。
それでいて、私は武器が嫌いだ。ダマスカスを鍛えながらもナイフは作らないと決めている。
しかし、ナイフを作る人々の技と知識に敬意を持っている。
更に日本刀となると、恐れ多い。
玉鋼という世界に類のない素材、村下の技。刀匠の火との対峙、研ぎ師の技、全てが神業的な領域なのだ。
武器云々ではなく、完全なる尊敬。先人達の知恵と歴史、同時に鉄そのものに対する敬意だ。
(もはや日本刀を武器と言っていいのか?? 博物館などでそれが武器である事を忘れその美しさに惚れ惚れする。) 《松江藩鉄師 (たたらの経営者) 頭取であった絲原家の絲原記念館にて。
刀匠小林貞悛氏の日本刀を持たせていただいた。日本刀ってそのものにオーラがあって持ってるだけで緊張》
昨年末、その夢は突然現実味を帯びた。
日新製鋼ギャラリーで個展している時、役員のMさんという方と知り合った。
3年前の個展の時からお会いしたいと思いつつ、会えなかった方だった。想像通り評判通りのスマートな紳士だった。
そのMさんが「たたらは見たことありますか?」
「ないんです。ずっとずっと願ってきましたが、どうやっても行かれないんです。」
「きっと古屋さんは見るべき人ですよ。ちょっと当たってみましょう。」
は??? へ???
今なんとおっしゃいましたか〜????状態に陥った。
「実は村下の木原さんとは 私の前職時に社内人材育成でご指導いただき、それ以来お付合いいただいているのです。
でも、村下と言えど見学者をおいそれと 入れることはできないと思うので、あまり期待しないで下さいね。」
ありゃ〜!! 青天の霹靂です。どうしよう!!
期待するなと言われても期待しちゃうけれど、物事現実になるまで 信じないという習慣は身に付いてる。
その後Mさんはギャラリーに 度々足を運んで下さった。
「やはり許可は木原さんではなく、日刀保さんからしか出ないそうです。難しいですね。申し訳ない。」
「申し訳ないどころか ご迷惑おかけしてます。」
何週間も経ったある日、ギャラリーにお客さんがあふれていた。ふと、Mさんが降りてきて下さった。
「古屋さん、日刀保さんから許可がおりましたよ!!」
もうその瞬間、私は周囲はそっちのけで飛び上がってた。おっそろしく嬉しかったヾ(*´∀`*)ノ゛
後でMさんから《 Mさん → 木原村下 → 日刀保 》のやりとりを教えていただいた。
詳細には書けないけれど、と〜〜っても難儀なお願いの末に 許可が 降りた様子だった。
それ知った時、ヘタヘタと座り込んでしまった。
私如きのために、これ程の方々が時間を割き、心を砕いて下さるとは...。
たたらを見たいという人は腐る程居るだろう。頼まれても容易く動ける内容では無いはずだ。
Mさんも 木原さんも 無理を承知で超異例のお願いをして下さったと、想像できた。
私、この人生を選択して 良かったんだ。この生き方だったから与えられたチャンスなんだ。
Mさんと木原村下のやりとりは 私の歩んできた道に 許しを与えてくれたような気がした。(勝手にね。)
もちろん私と木原さんはなんの面識もないし、私にとっては「たたらの村下」としてメディアでみかける神のような
存在でしかない。だから木原さんの言葉は、私の力ではなくひとえに Mさんのおかげなのだけれど。
それでも鉄の神様、金屋子様が私の存在に 気が付いてくれたような 気がした。 《金屋子神社の狛犬さん》
私の唯一の強みは ホトホト鉄が好きなんだ。
それだけで突っ走って来たが、楽な道ではなかった。人生の色んな物を切り捨て、人を傷つけた事もあったろう。
何度も挫折した。売れる物を作りなさいとたくさんの人にアドバイスされた。
それでも、世界中が振り向かなくても、私は鉄との対話から生まれ、私自身が良いと思った物を作り続ける。
そう覚悟してきた。
一人で闘うつもりだった。
「あぁ。疲れたよ。ココまで来るの疲れたよ。」
心の中に泣き言が溢れてきた。
今まで、自分で選んだ道に泣き言なんて不要だった。むしろ、その道を貫く事が許される環境に感謝していた。
きっと人間って本当に突っ張らなきゃいけない時は 泣き言言わないんだね。
言ったら言った本人が その言葉の重みで折れちゃうもん。
今、私は一つ何かにたどり着いたんだ、その分の強さを手に入れたんだ。
そして金屋子様に振り返って貰えたんだね。
「頑張ったね菜々。そしてあなたはこれから 応援してくださる方々と 金屋子様と歩いていいんだよ。
きっとね。」
と次なる鉄人生を思い描いた。
それから数ヶ月、日新製鋼展と 名古屋の三五展との掛け持ちで忙しい日々が続いた。
合間でたたらについて再勉強する。一抹の不安がよぎった。
「もしかすると見る前に 私死ぬかも。運良く見れたとして、ちゃんと帰って来れるかな?」
私にとって 叶ったら命に支障をきたす不安すら感じてしまう程の願いだったのだ。
幸運な事に帰ってこられた。
その強烈な印象で 帰宅してしばらく、色んな記憶が飛んでいた。
出発前に依頼した作品撮影の件でカメラマンからのメールで、やっと我に返り山積みの仕事と確定申告を思い出した。 《私の炉と私のダマスカス》
村下程の存在には 到底なれないけれど、
私は私の火と向き合おう。
これからも ホトホト鉄を愛し。火と鉄をつくづく尊敬しよう。
ほとんど会話できなかった木原村下は、それを持っている気がするから。
私にもそれができる。それだけはできるんだ。
もう、私の心には一切の泣き言も無い。いつか再び泣き言 言える日は来るのだろうか?
このような機会を与えて下さった、日刀保さん、木原さん、Mさん 心から心から感謝いたします。
ありがとうございました。
最後に奥出雲で出会った皆々様、本当にありがとうございました。
とてもあたたかく、たくさんの方々に親切にしていただいたり、声をかけていただきました。