言葉を失う。ってこのことだ。荒浜にて...
父と母と私3人 言葉無く立ち尽くした。
両親から 「展示会終わったら 一緒に 仙台に行こう」 と言われていた。
古屋家は意外と東北と繋がりがある。父は大学時代 岩手に住んでたことがある。
母の叔父さんが、東北大学で学部長を勤め、その後も亡くなるまで仙台に住んでいた。
その奥さんが、 独りになって亡くなるまで 母が面倒をみた。そんな訳で 両親は何度となく 仙台に行ってた。
だから両親が「仙台を見たい」と言い出したのは自然の事だった。
新幹線で仙台まで行き レンタカー借りて、私は運転手。
そして、最初に立ち寄ったのが 若林区の荒浜だった。
何もない、そして何も浮かばない。 浮かばないではなくありすぎて対処できないのか?また戻ってくるという意味を込めた 黄色いハンカチ。
こんな事があっても戻ってくるの? 戻ってきたいの? ここに住むのは危険じゃない?
でも、土地を愛する気持ちは理解できる...。
海からの砂混じりの 強烈な風の中で 慰霊碑に手を合わせた。
「ご冥福をお祈りします..」 と心で唱えたもののその先の言葉はな~んにも浮かばなかった。
何に怒りを向けたらいいんだ? 何を恨めばいいんだ? ただただ 手を合わせ続けた。
荒浜から 松島を抜けて 奥松島へ。 奥松島は学生時代 だ~い好きだった海。
夜中に友達と 最初の愛車 ちっちゃいCityで 山形から笹谷峠を 越えて行った。
まだ真っ暗なうちに 到着して 車で仮眠。 ふと目を覚ますと海辺に居た。
静かな朝焼けの中、 朝もやがたなびく海には、海苔(?) ワカメ(?)の養殖の棒が等間隔に何本も何本も立っていた。
それは とても幻想的な光景だった。
あまりにも美しかったから、少し車を走らせた。
木でできた桟橋があり、小さな漁船がたくさん繋がれていた。
朝早い漁師さんがちらほら。 見慣れぬ車に小娘達、煙たがられているのが伝わってきたが、
その全てが 素晴らしく美しかった。
成人式の日。出席しない事を決断した私は、自分が一番好きな場所に行こうと決めた。
もちろんそれは 奥松島だった。
たいてい観光客は 松島止まりだから、 奥松島は土産物屋なんてほとんどなかった気がする。
入り組んだ地形と漁村。 自然と調和した人々の息づきがあり 観光地化された松島には無い絶景だった。十数年ぶりに両親と訪れたその海は昔の面影はなかった。
奥松島は、 内陸には水田が広がり、海辺にはいくつもの入り江と砂浜があった。
中でも大きな月浜と室浜を訪れてみる事にした。
月浜のゲートをくぐってブロック塀に囲まれた細い路地を通るはず...
跡形もない。正面のおうちの所まで進んでみたけど、津波の傷跡の家陰にアウトドア用の2、3人用のが2張り。
失礼のないようにそっと立ち去った。
室浜へ。海は静かで曇り空でも美しかった。
でも私の知っている室浜ではなかった。
ここはトンネルの向こうに港があり、左側には道際まで、 ひなびた漁村があったはずだ。
ようやく理解した。
海や浜が美しいから ここが好きだった訳ではない。
人が居て人の暮らしが自然と調和していたから この景色が絶妙だったんだ。
その海に どれだけの命が奪われ どれだけの悲しみが 渦巻いているのだろう。
その悲しみも無念さも肩代わりできない。 せいぜい理解した気になることしかできない。
偽善者だよ。
夜、仙台市内に戻り、 おじさん夫婦がお世話になっていた ご近所さんを訪れた。
実は予告なしにお邪魔したのですが、ご家族みんなご無事で 再会できた事を心底喜んでくれました。
もちろんたくさんの恐怖を味わい辛い現状を経験し、かつ見てきた方々ですが、その笑顔には救われる思いでした。
ホテルにたどり着いたのは20時すぎ、想像を超える事態に圧倒され食事すらしていなかった~。
次の日は多賀城の父の友人を訪れる。 こちらはお会いできなかったけど。お元気なのは確認済み。
女川の原発まで行きたかったけど、時間的に厳しかったし 運転手の私が朝ホテルでコンタクトを放流してしまったので石巻&東松島へ。
青い鯉のぼりをみつけた。 失った家族の為にあげられた鯉のぼり。 有名みたい。母がテレビで見たって。
小雨の中 鯉のぼりの絡みを といてる方が居て、少しお話しを伺ってみた。
「全国から届いた鯉のぼりだから 絡まってたら申し訳ないでしょう、毎日こうして一度下ろしてほぐすんですよ。」
この期に及んでも そんな風に他人を気遣えるとは...。
あの向こうが 私の娘の家でした。 と指差す方向は壊滅的だった。
ちょっと考えさせられる言葉があった
「ボランティアの人々は もう充分良くやってくれましたよ。
ここから先は行政が動かなくてはいけません。 こうしていらしてくださることが一番の支援です。」
そっかぁ~
確かに、埼玉の方でもそれに関連する話を聞いた事ある。 ボランティアはある程度の所で身を引くそうな。そうしないと地域が自分の力で立ち上がれなくなる。また復興事業が雇用を生むということだ。
う~ん...ボランティアとは...? 更にその方は 「瓦礫を受け入れてくれるところがないんです。」
フクシマの事故がなければ そんなことなかっただろうに。
石巻は確かに至る所に 瓦礫の台地や山脈があった。 受け入れ側の気持ちも多いに理解できる。
難しいですね。鯉のぼりを後にして海まで出てみたらこんな光景だった。つらい...。
私たち日本人みんなが 向き合わなくてはいけない問題。
私達が行ったのはGW前でしたが、やはり中高年が被災地を回っているのを多く見かけました。
まずは、知ることですね。
せめてもと、お土産をたくさん買って新幹線に乗り込んだ。
新幹線に乗って 日常に帰れる私たちの後ろには、 非現実みたいな現実に取り残された人々が居るのだ。