宮城へ


言葉を失う。ってこのことだ。荒浜にて...DSCN6134.JPG
父と母と私3人 言葉無く立ち尽くした。
両親から 「展示会終わったら 一緒に 仙台に行こう」 と言われていた。
古屋家は意外と東北と繋がりがある。父は大学時代 岩手に住んでたことがある。
母の叔父さんが、東北大学で学部長を勤め、その後も亡くなるまで仙台に住んでいた。
その奥さんが、 独りになって亡くなるまで 母が面倒をみた。そんな訳で 両親は何度となく 仙台に行ってた。
だから両親が「仙台を見たい」と言い出したのは自然の事だった。
新幹線で仙台まで行き レンタカー借りて、私は運転手。
そして、最初に立ち寄ったのが 若林区の荒浜だった。
何もない、そして何も浮かばない。 浮かばないではなくありすぎて対処できないのか?DSCN6136.JPGまた戻ってくるという意味を込めた 黄色いハンカチ。
こんな事があっても戻ってくるの? 戻ってきたいの? ここに住むのは危険じゃない?
でも、土地を愛する気持ちは理解できる...。
DSCN6141.JPG海からの砂混じりの 強烈な風の中で 慰霊碑に手を合わせた。
「ご冥福をお祈りします..」 と心で唱えたもののその先の言葉はな~んにも浮かばなかった。
何に怒りを向けたらいいんだ? 何を恨めばいいんだ? ただただ 手を合わせ続けた。
荒浜から 松島を抜けて 奥松島へ。 奥松島は学生時代 だ~い好きだった海。
夜中に友達と 最初の愛車 ちっちゃいCityで 山形から笹谷峠を 越えて行った。
まだ真っ暗なうちに 到着して 車で仮眠。 ふと目を覚ますと海辺に居た。
静かな朝焼けの中、 朝もやがたなびく海には、海苔(?) ワカメ(?)の養殖の棒が等間隔に何本も何本も立っていた。
それは とても幻想的な光景だった。
あまりにも美しかったから、少し車を走らせた。
木でできた桟橋があり、小さな漁船がたくさん繋がれていた。
朝早い漁師さんがちらほら。 見慣れぬ車に小娘達、煙たがられているのが伝わってきたが、
その全てが 素晴らしく美しかった。
成人式の日。出席しない事を決断した私は、自分が一番好きな場所に行こうと決めた。
もちろんそれは 奥松島だった。
たいてい観光客は 松島止まりだから、 奥松島は土産物屋なんてほとんどなかった気がする。
入り組んだ地形と漁村。 自然と調和した人々の息づきがあり 観光地化された松島には無い絶景だった。DSCN6150.JPGDSCN6149.JPG十数年ぶりに両親と訪れたその海は昔の面影はなかった。
奥松島は、 内陸には水田が広がり、海辺にはいくつもの入り江と砂浜があった。
中でも大きな月浜と室浜を訪れてみる事にした。
月浜のゲートをくぐってブロック塀に囲まれた細い路地を通るはず...
跡形もない。DSCN6154.JPG正面のおうちの所まで進んでみたけど、津波の傷跡の家陰にアウトドア用の2、3人用のが2張り。
失礼のないようにそっと立ち去った。
室浜へ。海は静かで曇り空でも美しかった。
でも私の知っている室浜ではなかった。DSCN6158.JPG
ここはトンネルの向こうに港があり、左側には道際まで、 ひなびた漁村があったはずだ。
ようやく理解した。
海や浜が美しいから ここが好きだった訳ではない。
人が居て人の暮らしが自然と調和していたから この景色が絶妙だったんだ。
その海に どれだけの命が奪われ どれだけの悲しみが 渦巻いているのだろう。
その悲しみも無念さも肩代わりできない。 せいぜい理解した気になることしかできない。
偽善者だよ。
夜、仙台市内に戻り、 おじさん夫婦がお世話になっていた ご近所さんを訪れた。
実は予告なしにお邪魔したのですが、ご家族みんなご無事で 再会できた事を心底喜んでくれました。
もちろんたくさんの恐怖を味わい辛い現状を経験し、かつ見てきた方々ですが、その笑顔には救われる思いでした。
ホテルにたどり着いたのは20時すぎ、想像を超える事態に圧倒され食事すらしていなかった~。
次の日は多賀城の父の友人を訪れる。 こちらはお会いできなかったけど。お元気なのは確認済み。
女川の原発まで行きたかったけど、時間的に厳しかったし 運転手の私が朝ホテルでコンタクトを放流してしまったので石巻&東松島へ。
青い鯉のぼりをみつけた。 失った家族の為にあげられた鯉のぼり。DSCN6172.JPG 有名みたい。母がテレビで見たって。
小雨の中 鯉のぼりの絡みを といてる方が居て、少しお話しを伺ってみた。
「全国から届いた鯉のぼりだから 絡まってたら申し訳ないでしょう、毎日こうして一度下ろしてほぐすんですよ。」
この期に及んでも そんな風に他人を気遣えるとは...。
あの向こうが 私の娘の家でした。 と指差す方向は壊滅的だった。
ちょっと考えさせられる言葉があった
「ボランティアの人々は もう充分良くやってくれましたよ。
ここから先は行政が動かなくてはいけません。 こうしていらしてくださることが一番の支援です。」
そっかぁ~
確かに、埼玉の方でもそれに関連する話を聞いた事ある。 ボランティアはある程度の所で身を引くそうな。そうしないと地域が自分の力で立ち上がれなくなる。また復興事業が雇用を生むということだ。
う~ん...ボランティアとは...? 更にその方は 「瓦礫を受け入れてくれるところがないんです。」
フクシマの事故がなければ そんなことなかっただろうに。
石巻は確かに至る所に 瓦礫の台地や山脈があった。 受け入れ側の気持ちも多いに理解できる。
難しいですね。DSCN6190.JPGDSCN6177.JPGDSCN6184.JPG鯉のぼりを後にして海まで出てみたらこんな光景だった。つらい...。
私たち日本人みんなが 向き合わなくてはいけない問題。
私達が行ったのはGW前でしたが、やはり中高年が被災地を回っているのを多く見かけました。
まずは、知ることですね。
せめてもと、お土産をたくさん買って新幹線に乗り込んだ。
新幹線に乗って 日常に帰れる私たちの後ろには、 非現実みたいな現実に取り残された人々が居るのだ。DSCN6168.JPG

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